2016年10月11日火曜日

洋服を持たない木村佳と、彼女の巡礼の時

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ライトモティーフ… 歌劇など劇的な声楽や標題音楽において,登場人物や事物(剣,城など),概念(愛,死など)などを表現,象徴する動機。示(指)導動機と訳す。


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神奈川に帰るべく新幹線に乗ってるのですが、今回はこだまで帰ってきました。

短ければ同じ新幹線でも2時間で行ける距離を3時間半かけて帰っているのですが、この時間がなんだか心地よかったです。



漫画ハチミツとクローバーでリカさんが

みんなお金を出してこの何もしない時間を買うのね」
と言うシーンがあるんですが(突然寝台列車に乗っちゃったやつ)、まさにそんな感じ。



横浜に住んでいた頃よりも時間にゆとりはあるはずなんです。
少なくともスケジュール的にはとってもゆったりで、その証拠に京都に行くまでは愛用していたスケジュール帳も今はラックの端っこが定位置です。
しかしながら、ゆとりというかあそびというか、がなかったらしい。ーなんて気が付かなかったな。また忘れていたようです。


やること、と言っても主に家のこと(と練習)なので、外に出るって感じではありません。勿論外に出て買い物とかいろいろやることもあります。

神奈川に居るときよりも時間の進み方とか空気感はゆるい感じがするのに、日常がするするっと流れていく。
気がついたら京都に行ってから3ヶ月が経っていました。


喫茶店に行ってただ珈琲片手にぼーっと本を読む。
そうやって、ごくごくたまに、その何もしない時間(と珈琲)を買っていたのですが、最近やってなかったな。とか。
基本的に家の中に篭っていても別に大丈夫なインドア体質と一日中動き回っていても大丈夫なアウトドア体質をあわせ持つハイブリッド型なのですが、最近は前者が勝っていたようです。
なんか今日、ちょっと糸がふっと緩んだ。そんな感じがありました。


はんなりとはまだまだ程遠い。



この移動時間で、ここぞとばかりに本を読みました。
ちなみに今回のお供は村上春樹のエッセイと、カバンの中には伊福部昭の音楽入門。前者でだいぶ時間が終わってしまいましたけれど。
家でも本を読めばいいんですが、今のところそういった習慣が京都の家ではないようです。今までも主に電車の中だったし。
多分家でじっと本を読んでるのが落ち着かないのかな...

そういう意味では、今までとは違った意味で毎日働いているようで、これまでとは違う類の忙しさの中にいたように思います。(これからも?)



長時間の移動がわりと好きなのですが、その理由はやっぱり最初に出した「何もしない時間」、が好きなのかもしれません。
でもそれは、何かをする時間、があるからこそ、何もしない時間がたまに欲しいんですね。


あるいは、新幹線なり電車なり飛行機なり、閉ざされた空間で、自分の持ってきた限られたことしか出来ない。
途中で何か欲しくても、外からひっぱってくることは出来ない。
何かと制約がつきまとうようですが、それがかえって良いのかもしれません。

ときに人は、矛盾しているようですが、なんでも自由に出来る、満たされていることに不自由さの類を感じるんじゃなかろうか。
逆に制約がある、そしてそれがわかっている状況が、何かを変に期待しないからのびのびとしているのかもしれない。

ちょっと、音楽と似てるのではないでしょうか。(インプロヴィゼーションは違うけど。)
いわば、楽譜という敷かれたレールの上をいかに走るかっていうところでは、すでに音が決められている分制約があります。
でもその制約のなかでいかに表現するか、みたいなところでは、音色だったりそもそもマテリアル(道具)だったり、いろんな表現方法があるわけで。


有限の中に無限を見出す。


結局、これが(村上春樹の言葉を借りれば)私のライトモティーフなのかもしれません。


だからかな。
例えばあんまり服持ってないんです。家出てからなるほど確かにと実感しています。
ミニマリスト、というには持ちすぎているけれど、多分平均よりは持ってない気がします。
ただ、そうすると当然ひとつの物を短いスパンで酷使するわけですから、その回転はそれなりに早い。うーん、それってどうなんだろう、と思って夏物とか今年ちょっと増やしたりしましたが、やはり正直Tシャツとか早くも減らしたい。増員した分減らして定員に戻したい。
冬服に至っては衣装ケース1つ分+コートしか持ってってません。(実家にいくつかあるけれど、多分持っていったところで着ない。)

理由はいろいろとあります。
そもそも服に投資をしてこなかった。その分を違うことに使っていた、はあります。
では、お金があったら服をたくさん買って持っているのか?
たまに、稀にしか着ない服がいくつもあってもタンスに眠っているだけではもったいない。それでもその服を気に入ってるならまだしも、あまり気に入っていない服をたくさん持っていても気分が上がらないし、それで結局着ないなら意味がない。
更には数を持ちすぎて手入れが行き届かないなら、宝の持ち腐れ。いい服持っていても殺してしまっては意味がありません。

いっとき、毎日シャツとジーンズしか履かないようにしようか、なんて思ったこともあります。これ似合うのか、今日何着ようか、どれを買おうかっていうのかを考えるのがストレスだったんですね。思ったよりは見た目を気にしていたってことかな。
流石に思いとどまりましたけど、その時の理由は「それは数年後でも実践できる」。
ということで、もう少しファッションとやらを楽しむスタンスにしよう、と思ったわけですが、まあ極端ながらそのくらい選択肢が少ないほうがのびのびしている傾向にあるのかもしれません。(あ、でも今は服は欲しいです。数増やしたくないだけで。)


ということで結局何事においても、ある程度の制約の中で創意工夫と言いますか、こういうこと出来るんだ、って開拓していくのが好きなんだな。

でもちょっと矛盾してるかな、制約があるのは良いけど、それを取っ払いたい。引き伸ばしたい。とも思う。
例えば、稼ぎたい。
稼いだお金を次のやりたいことへ投資したいし、読みたい本を自由に買えるようになりたいし、不自由さを自由に変えたいとも思う。
練習するのだって、出来ないことで感じる不自由さを出来るようにすることで自由に変えている。

不自由というマイナススタートで良い。そこからプラスに転じたいんです。ーということかな。


自分の事に関して、うっすらわかっているけれどまだわかっていないことが沢山。

読書を通じその作者と対話する中で、自己を見つめ探していたら、3時間半なんてあっという間。
新横浜に降り立って、またスイッチをしばらく横浜モードにしたいと思います。
盆地モード(まだ構築中)は、また週末。


以上、村上春樹のエッセイを読んで何か感化されたKでした。
(文章下手くそだな、とも思ったりするわけですが、それもまた自分ですね。)




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というのを、先日横浜に帰ったときに書きました。
なんか公開するのためらって、でもせっかく書いたからなーってことで今更公開です。

ちなみにこの時は京都→新横浜をこだまでしたが、かえってくる時(新横浜→京都)はのぞみで帰ってきました。
あっという間。一時間って大きいですね。笑
考える暇がそんなになかった気がします。

ゆとり世代だからかしらねえ。ゆとり、って大事です。