2013年1月29日火曜日

【備忘録】連続性の中で問い続ける事(Only Japanese)


昨日、心理学(取ってたんです)のテストがあり、これを最後に今年度の学科試験は終了。
残すは実技系のみとなりました。
ピアノに始まり、声楽、サクソフォン・・・

そんなこんなで皆様いかがお過ごしですか。Kです。


写真はこれは、先日本番で行った、横浜市営地下鉄沿線の某駅です。
エスカレーター長くて。写真で今落ち着いてみてみるとそうでもない・・・?



その心理学のテストで、大学生活で(1年は今年の一年で)何を得たのか? というような趣旨の作文を書くという課題があり、なんとなくぼーっと書いていたのですが、思いの外「こんなこと考えてたのか」なんて事もあったので、ちょっと備忘録的な感じで。
あまり見られていること考えてないので(でも読んで欲しいから載っけるんだ☆)、文章カタイかもしれませんが、ご了承を。


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私は2年の浪人生期間を経て大学に今年入り、いま1年生が終わろうとしている。
2年のブランクを経て学問の世界に入ったので(音大ではあまり「学問の世界」と言ってもピンと来にくいところはありますが・・・)、その音大という特殊な環境における疑問をたくさん抱いた。

元から、「何故りんごは赤いのか」というエジソン発言をしないわけではなかったが、だんだん慣れていったら、当たり前だと、そういう発言も減るのだ、と思っていた。しかし実際は、より一層その傾向が強まった。

なので、この一年で得たものというと、
連続的に続く日常のなかで問を投げ続けることー 疑問力じゃないかな、と思う。
(アンダーライン引いてますが、別に試験には出ません。笑)



印象に残っている話を一つ。

指導者としての音楽家は、
(勿論この二つに集約されるわけではないが、)言葉を尽くして同じ感覚へと導く人と、
言葉を使わずして同じ感覚を掴ませようとする人、というふたつがある ーと、する。

私が授業でお世話になっていたとある先生は、どちらかというとこれの後者に当たるのか。あまり言葉を使って伝えようとせず、どちらかというと、
こういう感覚なのだけど(、わかるかな・・・そのうちわかるんだが・・・)」という。



ある時、彼はこういう事を言った。

「北欧の音程感は違う。数値的ものじゃないんだけど、感覚的にもっと高いんだ!」

北欧の作曲家の作品を扱っている時で、なんとなく言わんとしてることはわかるんだけど、うーん、そうかあ・・・ なんてぼうっと思っていた。

そこでふっ、と思った。



「何故北欧の人たちの音程感覚は私達と違うのか」。


それは、文化的背景なのか、地理的(寒い、乾燥している、・・・etc)背景ゆえなのか、それともその両方からそもそも骨格や感覚や、すべてが違うのだろうか。
そしてそれってどういう感覚なんだろう。アジア人にはもともと備わってない感覚なのか?

なんて考えていたら、もっと根本的な問題に当たった。



「何故アジア人の私が西洋音楽を勉強しているのか」


日本人なのだから、普通に考えればそれまでの流れで琴や尺八、篠笛なんかをやってても良かったのじゃないだろうか。
でも日本人であるが、そういった邦楽よりも、身近にはクラシック(西洋音楽)があった。ーそれはどういう歴史の、あるいは日本の文化の移り変わりが影響しているんだろう。

私はそういう流れの、どこに立っているんだろう。



問に戻って、何故私が西洋音楽をやっているのか。
そんな事をそもそも授業中に考えるべきではないのかもしれないが(それも一人で。。)、その問に当たった時に、今のところの結論に思い至ることになった。




西洋(他)の文化を知ることで、
アジア(自)の立ち位置や、
自分のアイデンティティーを知ることになるのではないか。



また、他を知ることで自を知る/見るだけでなく、それは同時に他を理解することになるのではないか。
だとしたら、もしかしたら今自分が勉強していることは、すごいことなのかもしれない。これからのボーダレスな人材(”グローバル人材”て好きじゃないw)になるために必要なことを勉強できるのかもしれない。
他の人には伝わらないかもしれないけれど、自分の中では今まで繋がらなかった点と点が確実につながった ーそんな感覚で。


文化的背景の違う人から習うわけなので(特に先生が自分と異なる国の出身で合った場合)、感覚じゃなくて言葉でその感覚にたどり着くための言葉というヒントがよりいっそう欲しくなるものだが、音楽という共通のフィルターを通しているので、そんなに言葉を多く語らなくても伝わるでしょう、というのがあるかもしれない。

あるいは日本人なら「行間を読む」感覚を、生徒に求めているのかもしれない。
西洋音楽の教育を通じ、音楽だけではなく、日本人ならではの感覚をも育もうとしているのかもしれない。

そうだとしたら、これはすごい「教育」ではないのか?



恐らく、普通に音楽をやっているだけでは、そういえばどうして私はいまココにいるのか、コレをやっているのかというのを、当たり前のように思ってしまうけれど、連続している毎日の中から問を拾い、考えてみる事で、何か違うものが見えたり、新しい感覚が生まれるのがとてもたのしい。


まだ学校に、あるいは自分の立ち位置に馴染んでいないのかもしれないが、もし馴染むことで疑問を持つのをやめてしまう日が来るのなら、いつまでも慣れずに新鮮な気分でいたいものである。
恐らく、この2年目からも、もっと言うと社会に出てからも、そういえば何故これは当たり前なのかと、感覚を研ぎ澄ませて問を投げていきたい。



ちなみに、先にあげた「言葉を尽くさずに指導する人」をもっと深読みすると、
言葉が出ない(当てはまる語が存在しない)、あるいは言葉を尽くしてしまうことで、いらないところまで自己を悟られてしまうのではという、ちょっとしたシャイ心(「でもわかってほしい」)もあるのかもしれないなんて ;)

ああ、もっと勉強がしたくなりました。


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こんな趣旨の事を書いた気がする。ちょっと付け足したり、忘れてしまったりしていますが・・・

文章可愛くねえー!!!www いいです別に、可愛げなんか求めてないZE!!!

しかし、なんで私はこんな可愛くない文章を書いているんでしょう?


・・・?


今日は、このブログみたいな感じにしてみました。ブラウンの熊たち。あっちは寒そう。笑

また明日(たぶん)。Kでした。